死なないという保障がみんなの頑張る糧になっていた。
ヤレばヤル程賢くなる、強くなる、レベルが上がる。我武者羅な努力が美学だと持て囃される、そんな時代もあった。
しかしここ最近の報道のためか、そういう言論が巻き起こっているためか、我慢の先に死があることが判明した。
働きすぎ、暑さに耐えすぎ、トレーニングのしすぎなどなどが主な原因だ。それから死ななかったとしても得るものよりも失うものの方が多くなる場合だってある。
捧げれば必ずしも得をするという時代は終わった。
これまでは死者や敗者に口はなかったが、今はそういった人たちの意見が吸い上げられる時代になったし、これからもどんどんその範疇は広まっていくだろう。”弱者の声を拾い上げろ!”ということが叫ばれてきた中で、ようやく希望の光が射したと表現することもできる。
だが声が拾い上げられたところで根本的な解決にはならない。弱者には弱者故の落ち目があることもある。何かに耐え忍ばなくてはならない要素がある。そういった弱い部分がノーリスクで救済されると思ったらそれは大間違いだ。理不尽ないじめから助け出される必要はあるけれど、無能は必ずしも救われるとは限らない。
何も、頑張る必要がないというわけではない。無茶な強制がこの世の中からなくなれば良いというだけであって、必要最低限のことは自分一人の力でやり遂げられないとお話にならない。
人それぞれ得意不得意がある中で、その人に見合った頑張り方というものが存在する。だからこそ画一的にこうするべきだということは決してないのだけれど、何事にも上限があるということは知っておいて損はない。
人が同じ道を走り続けたときにレベルアップできる上限は決まっている。それを知る術はない。
ある程度物事を極めたければ上限まで走り続ければ良いし、限界を感じたり別の場所を走りたいと思ったらすぐに他のステージに飛び移らなければならない。そしてそれが早すぎるか適切か遅すぎるかは誰にもわからない。
どちらにしても立場や視点を変えていかないとどんな人も上限という名の大きな壁にぶつかってしまう。
常に自分のやっていることやそのやり方について工夫をして、壁にだけはぶつからないように上手にスキルアップしていくことを肝に銘じない以上、人は救われない。