ひたすらに眠たい。
新生活が始まった一ヶ月前は通勤の電車で眠たくなるなんていうことはなかった。慣れない通勤方法に対する緊張が自ずと睡魔をどこかへ押しやってくれていたが、毎日同じ通勤電車に揺られていると自然と馴染んでしまう。
非常に眠たい。
日を重ねれば重ねる程に慣れ故の甘さが生じてしまう。何時間も電車に乗って移動しているわけではない。それでも、その内に眠りこけて電車を降り過ごし、気が付けば遅刻への道を進んでいるという可能性も捨てきれない。
昨晩なんかも早めに就寝したのにも関わらず、電車ではバッチリ眠たくなってしまった。
朝の目覚めが非常に悪くてまだまだ眠りたい!という強めの欲望に打ち勝ち、起き出してからは朝のルーティーンを心地良くこなせたものの、いざ家を出て電車に乗ってみると段々と眠たくなってくる。あんなに眠ったはずなのに、それでも電車の心地良い揺れには勝てないものなのか。
しかし帰宅時には不思議と眠たくならず、はっきりと意識を保ったまま帰路につく。帰宅時の方が疲労が溜まっているはずなので帰りの電車の方こそ眠たくなりそうなはずなのに、そうではないというのはきっと日中の活動を通じて覚醒しているからだろう。
対して朝はまだまだ助走が足りないので完全に眠りから覚めない。顔を洗い朝ごはんを食べ食器を洗い歯を磨き髪をとかして外着に着替えて束の間の覚醒もどきを味わっても真の覚醒は訪れていない。
となると朝にきちんと覚醒するための習慣をつける必要がある。それこそもっと早く起きて頭の体操をするだとか、体を動かすだとかその手のアクティブな仕掛が必要になってくる。
じゃあそれくらい躍起になるほどに電車で睡魔に襲われることに悩まされているのかと言われると
決してそういうわけでもない。
段々と通勤が辛くなってきているというだけで殊更にヤバさを感じているということはない。
その内ヤバくなるかもしれないけれど、今のところは大丈夫でしょうというところだし、なんならその内ヤバくなることもそうはないでしょうというのが本音だ。
「たぶん大丈夫なこと」に関してあれこれ悩んでしまうのが私の弱みのひとつだ。
どのようなことについてもある程度の予測が立っていて、対処法や善後策なんかもある程度は想定している。成功の可能性から失敗のリスクまで全部含めて「たぶん大丈夫」なのだ。
それでも予想外の事が起こったり、失敗の被害の程が想定を超えてきたりしたらどうしようという、どうしようもないことを考えることが多い。
個人でならここまでできると言う範囲を超えたことについてのifを考え始めてしまう。時には空想の世界なのではないかというような失敗の被害を考えてしまうが、いくらなんでもそこまでのリスクは根本的に手に負えないし、そもそもそんなレベルの負け戦に挑まなければならないことなんてない。それでも途方もないような負の空想をしてしまう。
なんて臆病なのだと自己嫌悪に陥りながらも、もう少し楽観視できる程の余裕が欲しいとも思う。楽観視した瞬間、言い換えると緊張の結び目をほどいた瞬間に全てが崩壊してしまうという可能性を恐れいている。
ギャンブラーみたいな発想をすると自身で思う瞬間がある一方で、なるべくリスクを負いたくないという強烈な恐れも抱いているということは、ある種の破滅願望でもあるのだろうか。
いつかの自分がこの記事を読み返した時に笑い飛ばせるくらいの立派な人物になっていることを強く心に抱く。