不定期な日記帳の遺構

はてなダイアリーで運用していた「不定期な日記帳」の遺構の上に成り立つ2019年3月より再始動したメインブログ

ポル・ポトという男

※フィクションです。

 

 

1928年はアメリカが中華民国から兵を撤退させ、赤十字社が正式に設立され、ミッキーマウスが銀幕に初めて登場した、そんな年であった。

 

 

世界中に戦争のにおいがする一方で、国際的に人命を尊ぶ流れもあり、また文化が大きく動き出した一年であり、どうやら私がこの世に生を受けた年でもあるようだが、実際のところは私にもわからない。自身が誕生したという事実は自身では知り得ないのだから。

 

 

今もこの世に生きていれば92歳ということになるが、事実として70歳で処刑されている。暗殺されたという説が出回っているようだが、この場では真相に触れないでおく。死者の語りに意味を持たせるわけにはいかない。

 

 

小国の中流(自称)の家庭で育つ

祖国はアジアにあるフランス領の小国であった。今でこそ一国として独立し経済成長には目を見張るものがあるが、遠くの強国や近隣諸国の目を気にしなければ生き抜いていけない時代に私はいた。もしかすると今でもその状況は変わっていないのかもしれないが、少なくともみんなが上を向いて歩いていける時代になりつつあることに疑いはあるまい。

 

 

今にして思えば国内では十分裕福と言える家庭に生まれたようだが、当時はどこを取っても中途半端なような気がしてならなかった。お手伝いさんはおらず、養子を含む20人と水牛2頭、刈り入れ時にはご近所さんの手を借りて農作業に当たっていた。思えばあの時が私の人生で最も平和な時代だったのかもしれない。しかし平和というものは血のにじむ努力の上に築き上げられるものだ。平凡なところで燻っていても何も起こらない。下を見ればキリがないが、できるならば上へ上へと進んでいけるような、そんな風にして時代を歩んでいかなければいけない。

 

 

無理くり留学してみたけれど周りはみんなガチもんのエリート

幸いにも従妹が国王の側室であったので、口添えをしてもらい、21歳の時に留学をし、パリにあるフランスの国立大学で技術について学んだ。ここで多くの友人に恵まれることになった。当時は留学組の間で共産主義の思想が流行し、「反王政かつオリジナルの人種こそが偉い」という考えを持っていた。その為、帰国後に頼りになるのはここで思想を分かち合いあった共に他国で学んだ友人たちであった。

 

 

そもそも周囲にいるのは私のような口添えがなくては留学できないような凡人ではなく、来るべくして来ている正真正銘のエリートばかりだ。2年間は何とか大学の講義に付いていけたものの、その後は3年連続で落第してしまい、祖国へ帰らざるを得なくなった。めちゃくちゃ悔しかった。

 

 

俺だってエリートだ

落第して帰国したとは言っても、海外に留学をした時点でエリート扱いをされるので私学の歴史の教師となった。一方で民主党にも加入した。加入当初は食糧の調達や物資の運搬などの雑用仕事しかさせてもらえなかった。「こんなものはエリートのする仕事ではない」と小言を漏らしていたのが今にして思えば若気の至りだったように思える。

 

 

ちなみに帰国後に最初の結婚をしたのだが、その相手がとんでもないエリートであった。彼女は裁判官の娘であり、国内の最難関の最高学府を首席で卒業する程の頭脳を持っていた。結婚生活について多くは語らないが、常に誰かに負け続けるという人生が私の思想を歪ませたのかもしれない。留学然り、結婚然り。

 

 

この時代は国際情勢が安定しない時代であり、隣国をはじめとする近隣諸国がフランスをアジアから追い出そうとする動きを見せた。この流れが我が国にも流入してきて一時的に国内の雰囲気がきな臭くなったので、この機に乗じて革命党に入ることにした。そして自身がここのトップになった時の為に保守的な考えを少しでも持つ者は徹底的に排除した。チャンスさえあればいつでも国内のパワーバランスを書き換えられるようにこっそりと力を蓄えることにした。エリートを舐めてもらっては困るという復讐心にも似た野望を抱くようになっていた。

 

 

流れ、来た?

一方で国内にも大きな変化が訪れ、国王(従妹の結婚相手の孫)が王位を退任し、保守系の政党を設立することになった。元国王として人気取りに出れば他の政党に勝ち目はない。この捨て身の作戦には聊か驚かされはしたものの、いつかはその人気にも陰りが出るはずだ。すぐに火が付いたものは、残念なことに冷めるのも早い。それまでは大人しく様子を伺うことにした。

 

 

隣国が戦争を始めたことで保守派の拡大傾向は収まったが、ほぼ同時期に農村部への弾圧が強まった。政局の転換が決定的となったのは政府が米を安く買い叩いたことに端を発する。隣国の戦争に対して米の供給を絶つことを決定した政府が強制的には農村部から米を買い取ることにしたのだが、隣国の買値よりも安価で巻き上げたのだ。これに対して農村部は抵抗姿勢を見せることになり、革命派への協力体制が築かれた。

 

 

さらに米の供給が絶たれることで中国とアメリカの両方の機嫌を損ね、中国は革命派の援護をしてくれることになり、アメリカは手頃な将軍にクーデターを起こさせ元国王を政党から追放した。

 

 

ここからは完全に棚から牡丹餅ではあったが、その元国王がなんと我が政党に手を貸したいと申し出てきたのだ。敵の敵は味方ということであろうか。この元国王には人望と人脈がある。それこそ我が政党の持ち得ない強力な武器であった。

 

 

ちなみにこの将軍も結局の所、アメリカの操り人形でしか無かった為に汚職事件を起こすなどして反感を買ったし、それどころか政局を築く為の下地があったわけでもなかったので、その影響力は都市部のみに留まることになった。泥縄すぎんだよな。

 

 

また政府は農村部から安く米を買い叩く一方で、隣国や革命党を牽制する意味合いで武器を輸入するためにその米を他国へ売り飛ばしていた。その結果、米を輸入せざるを得ないという矛盾に満ちた状況を作り上げていた。私も似たようなことをしているのでこればかりは笑えない。

 

 

俺の時代

そうこうしている内にアメリカは我が国から撤退することになったものの、政府vs革命党・農村部という体制は継続されることになった。

 

 

政府サイドはアメリカという核を失うことになった結果、我が党が勝利を収め、私が国の先頭に立つことになった。夢が叶った。

 

 

何はともあれ農業が大ダメージを受けたので国民総出で農業に携わることを目標にした。我が国民はみんなのんびりとしているので強制的に動かさなくてはいけないということでルール作りから徹底的に行うことにした。学校も工場も病院も銀行もいらない。当然貨幣も不要だし、苦しんでいる国民の面倒を見ている余裕もない。また機械なんかに頼るから資本主義に蔓延られてしまうということで全て手作業でやっていくことにした。水路・ダム・灌漑から全て手作りでやるというのは生きている感じがして良い。幼少期に一家総出で農業をしていた頃が懐かしい。

 

 

しかし世の中は一向に平和になっていかない。これはきっと国内に裏切り者がいるという証拠だ。私よりも頭の良いやつが影で何かやっているに違いないという発想から、字が読める者、時計を見れるものは皆殺しにした。国のトップが一番じゃないと威厳も出ないしね。人々の結びつきもどんな思想に発展するかわからないので恋愛や結婚もできない仕組みを作った。

 

 

一方で子供はかわいいものだ。変な知恵が入っていないし、何より純粋無垢な瞳がかわいらしい。子供には悪事は働けまい。これからは子供を大事にする時代にしよう。純真なまま育てて行こう。

 

 

俺の時代終了のお知らせ

そんなことを考えていたら我が国から逃げ出した元国民たちがベトナムの力を借りて攻め込んできた。できる限りの抵抗はしたものの、知恵のあるやつはみんな殺してしまったのでもう勝ち目はない。大人しく降参しても何をされるかわかったものではないので負けを認めてひとまず退散をしたらどうやら新たな革命軍に政権を取られてしまった。

 

 

この動きに対してアメリカやタイが「それはもはや我が国ではなくベトナムの意志だ」と、どの口が言ったものかは知らないが、批判を浴びせたようだ。後に国連の監視下で我が国は新たな一歩を踏み出したようだが、その際にめちゃくちゃ大事にしていた私の右腕に値する人物がアメリカにすり寄るそぶりを見せたのでこっそり暗殺してみたが、どうやら世間にはモロバレだったようで私はすぐに逮捕されてしまった。

 

 

こんなところで捕まってはいけないと脱走をしたところで私の人生が終焉を迎えることになった。

 

 

 

 

こうして前述の通り70歳で世を去ることになった。振り返ってみればエリートとの差を見せつけられ、歪みまくった青年期を過ごした結果、その発散として革命を起こしたようにも思える。当時はただ必死に良い影響を齎していこうともがいていたが、無意識の内に目障りなものを退け、幸せの形を多くの国民に押し付けようとしていた。

 

 

私の人生は何だったのだろうかと、ふと思い返してみる。