カテゴリ分け第一弾からチラシの裏という名の愚痴の記事になってしまうのだけど、何年か後の自分が見たときに何らかの化学反応が起こると信じている。
一層この気持ちが強くなっているか、あの頃の自分は若かったと笑っているかのどちらかだ。プラスにせよマイナスにせよ足を進める必要がある。
最近、仕事のやり方についてくよくよと悩んでいてときに落ち込み、ときに極度のマイナスから突然ふわっとした自信を持つことがある。
どんな組織にも、どこの会社にも、どのような仕事にも言えるのだろうけど、ある程度のルールがあり、時にそのルールを破らなくてはならない場合がある。
例えば納期に対しては発注期限というものが付いて回るものだけど、発注の期限が守られない場合でも納期だけは確実に守らなくてはならない場合がある。どんなに口酸っぱく期限を伝えても結局のところ客商売である以上は相手に合せなくてはならない場面が出てくる。
ルールというものは組織を守るためのものであり、快適に仕事を回していくためのシステムであると言える。みんなが一斉に同じ筒に同じタイミングで材料を詰め込むことで希望通りの生産が行われる。しかし誰かがわがままを言いだしたとして、そのわがままを叶えてしまえば一度で完了したはず物を二度に渡って作り出さなくてはならないことがある。
サイクルを回すのにだって(仮にどんなに些細なものだったとしても!)費用がかかってくる。機械を動かすのもそうだし、人が動くのだってそうだ。機械の動きは消耗という形で擦り減るし、人が動くのは誰かの時間を奪うことに繋がるし、最近だと残業時間の増加に繋がり”働き方改革”に反することになる。
誰かの為に余分に動くと誰かが損をすることになる。その損を埋め合わせるには究極の場合、お金で解決するしかなくなってくる。
良い設備を導入したり、人を多く雇ったりして何らかの形でカバーしていくしかない。
一歩進めて考えると全員がルールを破ることで新しい環境に進むことができることになる。みんながルールを守らなければ前述の通りお金で解決するしかなくなってくるが、ルール破りが常態化することでお金で解決するというのも当たり前になってくる。となると値上げしてしまえばルールの枠を広げることができるということになる。
そうは言っても大勢がルールを守れている限りは、そのはみ出し者を切り捨てるなり、特別扱いする代わりに特別請求(所謂罰金を科する)をすることでルール内に収まっていくように誘導しなくてはならない。
はみ出し者を温情で許す限りは、その組織は前に進んでいくことができない。はみ出し者が一人発生すれば、業界的にも同じようなのがまた一人また一人と増えていく。評判が評判を呼んで一斉に堕落していくケースもあれば、無関係の人たちが同時多発的にルールを破り出す可能性もある。
そもそも”客商売なんだからちょっとくらいのおまけは必要だよね”という発想は、どうなんだろう。
ちょっとくらいのおまけが積もりに積もって値下げ合戦なり無茶な要求に応えていかなければならない悪環境の発生に繋がっていくのはどんな業界にも当てはまる。
使う側が安いところや無茶を聞いてくれるところに流れて行けば良いのだから、川の水が下の方に流れていくのと同じように環境はどんどん劣悪になっていく。無茶を聞かないと生き残れないなんて言うことになりかねない。
反対にその辺りを業界全体で突っぱねることで”カルテル”の状態が生まれてしまって、今度は消費者が一向に得をしない市場が生まれてしまうという恐れもある。
どんなコンテンツも立ち上がりは価格が高く、場を重ねることで段々と低価格化が進むものだけど、あまりやりすぎると価格破壊に陥ってしまうという発想の対局に位置する概念だ。
物事の衰退には”慣れ”というものがキーワードになるのかもしれない。価格を維持するにせよ、下げていくにせよ、中心にいる組織のフットワークが軽くないと時代に取り残されてしまう。
価格を維持すると殿様商売になって努力をしなくなり業界全体の士気が下がるし、価格を下げていくことでこれもまた業界全体が過剰な競争の末に突然消滅してしまう恐れがある。
業態を変えて価格と売り上げを保つことでしか生き残りはできない。企業サバイバルとはまさにこのことなのだ。
と、ここまで考えておいて結局のところルールを守れない人の言い分もある程度は聞くけれど、ひとまず何らかのペナルティを与えたいと思うのであった。