不定期な日記帳の遺構

はてなダイアリーで運用していた「不定期な日記帳」の遺構の上に成り立つ2019年3月より再始動したメインブログ

心のゆとりが平時とのギャップを突いてダメージを与えてくる

忙しくないという状況が続いているし、今後もしばらくは続いていくだろう。全ては新型コロナウイルスの仕業だ。

 

 

 

ざっくり言うとバタバタしていた中で突然ゆとりが出来るとあれこれ考える時間が増えてしまって結果的に精神衛生を悪化させていくよねという話。慣れないことはするもんじゃない・・・とは言わないけれど、日常とのギャップは何かしらの弊害をもたらすよねみたいなことをこの記事ではダラダラと書く。

 

 

 

”暇”

 

という状況ではない。やることは意外とある。むしろ山のようにある。顧客からの発注が完全に止まっているので売り上げを増やすような業務はないにせよ、普段バタバタとしていて中々手を付けられない場所の片付けに思った以上に手間取っている。

 

昨年の5月に行った大掃除とはまた異なる場所になる。

一体どれだけ散らかってる会社やねん!という話にもなってくる。

 

syaroku.hatenablog.com

 

民度の低さはさておき、長年に渡って積もりに積もったエントロピーを今こそ快適化するぞー!という意気込みで着手しているのだけれど全く片付く気配がない

バリバリで作業は進んでいて少しずつ状況は良くなって来てはいるものの、手を付ける部分が多すぎてこのままでは今月中に片が付かないのではないかという疑問まで抱き始めてくる始末だ。

 

1ヶ月くらい会社を休止状態にしつつ、内部ではあくせくと整理整頓にでも励んだ方がいっそのこと会社にとってのプラスになるんじゃないかという気がしないでもないが、このご時世なのでついに弊社にも出社人数削減の要請が来た。人が集まること自体が悪とされているから仕方がないし、個人としてはむしろ安心だ。どうせならお休みか自宅待機にしてくれ。

 

本当は休業にしなさいという要請だったようだけど、会社の方針としては完全にやってませんよー!という状況にはしたくないようなので少数シフト制が採用されることになった。週の半分近くが休みに切り替わるなんてなんて素敵な!という状況になっている。

 

最低限の買いものと運動目的以外では外出ができないものの、

 

 

家でやれることなんていくらでもある。

 

 

予め借り込んでおいた図書館本を読んだり、学習系の教科書を読み直したり、長編小説の続きを書いたり、こうやってブログの記事を作ったりもできる上に、他の人の書いたwebの記事も思う存分眺めることができる。だから自宅では暇という状況ではなく、あれもこれも好きなことをできるぞー!という最高の環境が整っているわけだ。

 

それはそれとして、何かしなくてはならないことに追われる生活から抜け出せた今、ちょっとしたことが脇を突いてきて、それが思わダメージになることもある

 

 

元々ちょっとしたことで考え込んでしまうタイプではあるが、日々あれこれとやるべきことと対決していたおかげでそんな些細なことが頭を占めることはなくなっていた。しかし今は向き合う相手が極々限られたものになってしまったので、普段だったら取るに足らないような相手にも苦戦してしまうようなハメになっている。こればかりは性格の問題としか言いようがない。

 

この癖には十代の頃から悩まされていて、大人になる頃にはきっと治っていると思い込んでいたが、歳を取っても根本は変わらないようで環境が落ち着いてしまうと容易に再発してしまうのであった。私について言えば辛いことは辛いけれど軽症の部類であると思うし、何かに必死に取り組んでいる間は何事もなく過ごせる。重症の人や何をしても手が付かない!という人から順番に鬱の餌食になっていくんだろうなと思う。

 

鬱の経験者からしたらお前に何がわかる!という話にはなってくるのだろうけど、日常で起こる簡単なズレが取り返しのつかない大きなものになってしまうと、呼び方がどんなものであるにせよ、精神面での病気に陥ってしまうのだと推測する

私には通院経験がないし、社会的にどうしようもなく困ったなんていう状況になったことがないのでその辺はよくわからないけれど。

 

ゴールデンウィーク明けから色々と動き出す風潮がある中で、時間のかかりそうな作業を自粛が終わり次第お願いしたいと言われている。1ヶ月近くも先のことだから何の確約もできないけれど、確約できませんと保険を張れるような顧客ではないし、私にそんな先のことを覚えていられるかどうか不安だし、覚えていられても実現可能かどうかはやってみないとわからないし~~~~~!ということで頭がいっぱいになっている

 

前々から言ってたじゃん!という話になったり、事情が変わって納期が早まった!という話になったり、実現できなかった場合なんで実現できなかったの!?!?!?と激詰されたりと良くない未来を勝手に想像してしまう

 

いや、良いんだよ。そんなの覚えてねぇよ!って啖呵を切っても良いし、何勝手に納期を縮めてんだよ!って突き返しても良いし、誰もできるなんて言ってねぇよ!ってしらばっくれても良いし、やりようはいくらでもある責任という二文字を放棄すればあとはどうとでもなる。

川の水で例えるなら、どんな大きな岩にその流れを堰き止められようが、岩を避けるなり、地面に染み込んでいくなり、川の流れは好きなようにやっていく。私がミスをしたところで結果がどうであれ、

 

 

きっと何とかなる。

 

 

私の立場がなくなったり、会社自体の信用がなくなったり、その顧客がさらなる上流から雷を落とされるなり何らかの事件にはなるにせよ、自身が図々しく構えていればそれでOKだ。世の中は、不幸なことにも、そういう風に出来ている。

 

 

 

そんなことはわかっているんだ。普段はそうやっていろいろなことをやり過ごしている。9割はきちんとやり通すけれど、残り1割くらいは不運に見舞われて未達成で終わってしまうのでその辺は適当に言い訳して納得してもらったり信用を失ったりしながらのらりくらりとやっている

 

でもこれだけ余裕があると精神的にふわっとした部分が誕生してしまい、そこをガツンと突かれると心臓が痛くなるような思いになる。しかも立て続けに2件くらいそんなようなことが発生したので途方に暮れてしまっている。

 

いついつまでにこれをやる!ダメな場合は最終期限がここ!という風に未来の私がスケジュール帳を見返した際にいつでも思い出せるように、そしてスケジュール帳をなくさない限りは確実に忘れないようにしてあるので、何も問題はない

実現できなかった場合に納得してもらえるだけの説明なり善後策なりも複数準備してあるので万が一のことが起こっても大丈夫だ。これだけやっても何か不備があるのではないかという不安に苛まれている。

 

いつもであれば大なり小なりのこんなことが集まって仕事というものが成り立っているのでひとつひとつに割り当てるリソースもちょっとずつで済んでいるのだが、今回は有り余ったエネルギーを全開にして立ち向かっているのでこんなことになるのだろう、きっと。

 

 

体を動かしたり文章を書いたり本を読んだりしていると徐々にこんな些細な悩みはなくなっていく。とにかく頭なり体なりをガンガン動かそう。無駄な考え事をするには人生はあまりに短すぎる。

 

出たとこ勝負で良いのだ!