不定期な日記帳の遺構

はてなダイアリーで運用していた「不定期な日記帳」の遺構の上に成り立つ2019年3月より再始動したメインブログ

歩くのをサボったことについて書こうと思ったらぐちゃぐちゃと長ったらしくなった

平時は自然と運動できている。

 

 

仕事の中で知らず知らずの内に体を動かすことができていたし、それにプラスして3日に一度程のランニングを取り入れているので運動習慣はほとんど完璧な状態になっていた。土日はフットサルに出かけるなりなんなりで体を動かせていたので、平日だけでなく休日も含めて完成形が出来上がっていた。これまでは。

 

 

しかし最近はそういうわけにもいかなくなっているので積極的に歩くことにしている。

 

 

syaroku.hatenablog.com

なんやかんや一人で歩くのがメインになっている。

 

 

仕事で歩いているのと同じ感覚で歩きまくろうと思うと1日の内の多くの時間を散歩に割かないといけない地獄のような展開になってしまうのでほどほどにセーブして、大体1日1万歩くらい歩ければ良いかなということでiPhoneを携帯して歩数を気にしながら歩きにでかけている。

 

 

ランニングについては毎日走るとクールダウンができなくなるので3日に一度程度という縛りを設けた上で行っている。軽~いランニングを取り入れればクールダウンの妨げにはならないだろうから3日に一度という縛りを潜り抜けられるし、歩数もそれなりに稼げるので散歩の時間を削減できるしで中々良い案だとは思ったけれど、歩くことにこだわりたかったので軽~いランニング案は保留にすることにした。

 

 

そんなわけで2日連続で1万歩(2時間弱)歩いたら翌日は5~6千歩(1時間程度)歩いて後に1時間程走るという3日程のサイクルを組んでいたのだけど、先日は自転車を2時間漕いでそれで1日の運動は終了という日を作った。自転車と戯れたし1日くらい休んでも良いかということで自身を甘やかしてみたら気が緩んでしまってその次の日は普段以上にふやけた1日になった。慌てて走りに出掛けたもののどことなく力が入らなかった。

 

 

歩くことが大事なのか、それとも何かを続けることが大事なのかはわからない。ひとつひとつの物事に集中できず、毎日つけている日記の内容も乏しいものになった。同じ様な日々を送る中でも何かしらの発見を日々紙の日記に書き連ねている。特にここ最近は枠を目一杯使う程のボリュームのある内容になっていたのだけど、その日だけはスカスカ気味であった。手のつかなさの表れが顕著であった。

 

 

自転車は想像以上に体を使わない分野(あくまでも個人の感想)なので最低でも4~5時間は漕ぎ続けないと効力を発揮しない。そもそも歩くことと走ることですらちょっとした差異があるのでましてや自転車も併せて一緒くたにはできない。何となく同じ系統だからどれかをこなせばOK的なイメージを持ちがちだけど、それぞれの代わりは務まらない。

当然、自転車で走ったから今日は何もしなくてもOKとはならない。

 

 

その論点から言うと今日は走ったから歩くのをサボってもOKともならない。

いくら走ろうともある程度は歩かないといけない。だから1時間歩いて1時間走るというのはある程度理に適っていると言えよう。その前2日間に連続して2時間歩いたのであれば翌日の1時間の散歩は1時間分のインターバルを取ったと言う見方もできる。

 

 

だからこそ歩くことは日々の習慣としてきっちりこなそうと改めて誓ったのだが、単に習慣というものをひとつ削ったことによる精神的な緩みであればその誓いはあまり意味のないものになる。

 

 

 

 

とここまで書いてきたものの、習慣を手放すことが次の一手に繋がるという見方もある。この休暇期間に色々と手出しをしたくなってあれもこれもと趣味の範疇を広げていたら1日が何時間あっても足りないと思えるくらい詰め詰めな日々になってしまっていた。

 

 

順番を組み変えたところで結局、日々やっていることは大して変わらない。

映画を午前中に見て書き物を午後に回し、次の日は書き物を午前中で済ませて映画鑑賞を午後に持ってきたところで、俯瞰してみれば内容に大きな変化はない。

 

 

こんなことを毎日欠かさずに続けている。あの手のこの手で手法や目の前の壁の色を変えてはいるものの、結局立ち向かっている壁は変わらない。

 

 

何かを完全に止めにして空白の時間を作ってみるのもアリかもしれない。とは言いつつ、どうせ空白の時間が惜しくなってまた何か次の埋め合わせを考えるのだろうけれど、この小さなおつむで思いつく埋め合わせなんてどうせ大したことはない。そういう意味でも日々尖って行かないと何かが擦り減っていく気がしてしまう。同じことを延々と繰り返す忍耐がないのであれば常に常に変化して新しいことに飛びついていかないと何も成し遂げられない。

 

 

目標の離散」のような表現を聞いたことがあるが、まさにそんな感じになっている。魅力的なものに囲まれ過ぎているのだ。その為に真の目標を見失っている。

 

 

生活の安定を求めた転職?

長編小説を書き上げる??

退屈な日常からの脱却???

 

 

そんなもん全部が叶うわけがない。高望みのし過ぎだ。

 

 

取りあえず手近いところとしては長編小説の執筆が後1万字くらい書けば一応の終了となる目標である。10万字まであと一歩と言うところまで来た。しかしこれが書き上がってからどうこうしようというのは現時点であまり考えていない。

 

 

台詞と登場人物の自分語りのバランスが非常に宜しくないので10万字達成後はこの辺りを見やすくして、その内になろうにでも上げるつもりでいるが、そこまでだ。最初は出版社に突撃しようとも考えたけど、書くだけでぜえぜえ言っているものをプロのところに持って行ってどうするという話だ。

 

 

まずは人目につくところに上げる。そしてまた何か違うものを書く。物書きとしての体力が付いたら腕試しでプロのところに持って行く。数本書いてもう何も湧いてこないのだとしたら続ける価値はない。いつまでもアイデアが湧き続けることが物書きとしての生命線だと勝手ながらに考えている。この辺りがふわっとしていて、ビジョンが見えていないのが一番の課題だ。

 

 

しかし、まずは書き続けることに慣れ、そこから考える。何もせずに考えているだけの期間は終わった。これからはガンガン書く。せこせこと長編に中編にショートショートにと書き散らしていくし、当然このメインブログ、note、サブブログもガンガン書いていく。

 

 

そんなわけで最近のnoteの記事とサブの記事も載せておく。

 

 

note.com

 

syarokusuke.blog20.fc2.com

 

noteの記事はちょっと前にここで書いた”伝記風”のカテゴリの唯一の記事をnote用にリテイクした一本だ。noteのアクセス動向を見てみる為に修正を加えてnoteに上げ直してみた。次のネタはもう考えてあって下調べからざっくりの構成まで準備してあるのだけど、長編小説が書き終ってから手を付けたいと思っているのでまずは手近なところで手を打ってみた。

 

 

サブブログの方は映画鑑賞の記録の記事。これを書いている時点で連続22日間映画を観続けていることになる。連続記録が途絶えた時でにも書こうと思うのだけど、何年もかけて連続して観ないと名作と呼ばれるものを全部鑑賞し切ることはできないし、例えば誰かと映画談義をした時に観た作品が被る可能性もそう高くはならない。

どのような映画との付き合い方を求めるかによって変わって来ることなのだけど、基本的に映画は観た本数では決まらず、どれだけお気に入りの映画を観ることができたかでその価値は決まるものだと思う。映画談義をしたり映画評論家にでもなりたいのであれば観た本数にも価値は出て来るのだろうけど、まずはどれだけ心を打たれるかだ。

心を打たれる為には本数をこなした方が良いには決まっているという逆説もあるのだけど、まずはその観る姿勢こそが大切になってくる。たかだか22日間映画を観ただけの人間が何を言うかという感じだが、タイトルだけは知っているという作品を毎日見続けてもそう簡単には見終えることができない。それに加えて題名の知らない名作だって枚挙にいとまがないくらいあるのでそういったものを含めて気になる作品を全部観てやろうなんて途方もない考えだ。だからこそ私には私の映画の見方や楽しみ方があると割り切って、時間の許す限りマイペースにのんびりと映画を観て行く。

 

 

話は逸れたが、立ち向かっている壁が変わらないのであれば取り組んでいることを順番ではなく内容から変えなければいけない。そろそろ長編小説が一段落するので、それをきっかけに習慣を変えて行こうと思う。業務の方も通常形態に戻るのにつれて持ち時間も変わってくるので早い内に切り替えていく。

 

 

かなり長くはなったが、ここ最近うだうだと考えていることを思いつく範囲で全て書き出した。多分また日々色々と出て来る思うのである程度溜まったら書き散らす。